ご挨拶

 わたしは2009年11月1日より、パリに本部を置く曹洞宗ヨーロッパ総監部の新しい総監となりました。なによりもまず、前任者である今村源宗老師が五年間にわたってヨーロッパ総監として果たしてきた目覚しい仕事に対して感謝の意を表したいと思います。老師とその職員の方々の懸命なはたらきのおかげで、われわれと日本の曹洞宗宗務庁との関係に長い間影響を及ぼしていた制度上・組織上の問題の多くが解決しました。今村老師が、自分の役割は共通の利益のために役に立つことであって、自分の見解を一方的に押し付けようとすることではないという認識を受け容れられたことはわたしにとってこのうえなく価値のある人間的・宗教的教訓となりました。
 わたしはつぎのような道に従って進んでいく所存です。わたしにとって総監としての仕事は、わたし個人の宗教的な修行に関わる、あるいはそれと重なっている職務ではありません。ましてや曹洞宗の職階の序列のなかのありそうもない経歴の最終的段階をめざす中間的な段階でもありません。それはわたしが仏道の弟子であることが、これらの状況下において取るべき形なのです。わたしが新しい責務をうまく果たしていくためには、道に生きる人なら誰でも日々の人生での具体的な状況下でそうするのとまったく同じように、仏法に従い、それを学び、それを実証する好機として、自分の責務をとらえなければならないと確信しています。
 いまや西洋文明は世界的スケールで優位を占める文化になりましたが、その霊感の源であったヨーロッパ文明は今、甚大な宗教的・文化的・社会的結果を伴うアイデンティティ・クライシス(自分とは何かについての危機的状況)、つまり個人やコミュニティに影響を与え長期にわたって悲惨な結果をもたらすかもしれないような危機、を経験しつつあります。このような文脈において、「ヨーロッパ、そして全世界における仏教の意味とはいかなるものでありうるのか?仏教はいかなる課題を果たすべきであるのか?」という問いを、もういちど、しかも真剣に自問してみるということが絶対的に必要です。今日のヨーロッパにおいてはいかなる仏教が誰にとって、そしてまた何故、適切であるのかを問わなければなりません。言い換えれば、どのような仏教がヨーロッパのリアリティにとって適切なのか、ということです。
 われわれの場合、この質問に対する応答はまちがいなく次のようなものにならざるを得ません。それは、正しく伝えられ、正しく受けとられてきた、曹洞禅の伝統にたつ道元禅師と瑩山禅師によって正しく証明された釈尊の仏教である、という答です。しかし、この応答は自分の所属している宗教を単に表示する陳腐な定式であってはなりませんし、仏教徒として自分を規定するための印として考えられるような共通の規準的規則を遵守するという単なる表明でもありえません。制度上の規則が有益であるのは道を探し続け、進み続けるようにわれわれを励ます限りにおいてなのです。規則が有益であるのは、それが目的や進歩それ自体ではなく、目的に対する手段であるときなのです。
 こういう観点においては、この応答が妥当であり得るのは、それが問いを閉め出すのではなく、今日の世界にとってほんとうに適切なものであるように何度も何度も問いを練るときだけです。もしわれわれが道元禅師によって触発され、またそこで示されている実例に従おうと望んだとき、今日のヨーロッパにおいて、またわれわれ一人一人の人生において、釈尊の教えがどのような力強い意味を持っているのか?この問いは、もしどこまでも問い続けるならば、われわれを日々の活動において支え続け、今日のヨーロッパにおいて仏教が取らなければならない、また将来において取るであろう新しい形態を生み出すものとなります。われわれは、本質的にこれこそが正しいといえるような形態がすでにもう存在していると考える誘惑(非常に魅惑的な誘惑ですが)に屈しないようにしなければなりません。
 われわれの伝統における正しい伝達とは正しいとされる形態の伝達ではありません。仮にもしそういうものがあるとしたら、正しい形態とは、日々の坐禅の姿勢の正しい伝達であり、それは限りのない開けへと、そして法門へと導く無数の道のすべてを学ぶという誓願の変わることのない形態です。 
 交代の時期というのは新たに始める時期でもあります。われわれの先を行く者たちが切り開いた道をさらに先へと前進し続ける時であり、同時にあらたなる更新の機会でもあるのです。特に、日本人ではない者を総監に抜擢するということは、その職に就く機会を与えられたものにとってだけでなく誰にとっても、実に目新しいことです。なぜならそれは日本の組織がヨーロッパの現実そして国際的な現状に対して解放性を示すという歴史的な兆候だからです。この目新しさが意味することの一つは、その職を担当する者とヨーロッパ総監部に関係を持つ人たちの間にこれまでとは異なるタイプとレベルのコミュニケーションが生まれる可能性があるということです。言語の壁が部分的には乗り越えられ、お互いが異なった解釈を生み出しかねないフィルターを取り除くことができ、また双方に共通の文化的背景があります。
 わたしの果たすべき任務は、主に、一方では曹洞禅の伝統に伝えられてきた教えを受け容れつつ、他方では人生を釈尊にささげた人々から来る要求に耳を傾けることだと思います。しかじかのことをしてほしいという要求にしたがって、すべての人のためにわたしは尽力します。曹洞宗と総監部によって指示され許された規則とやり方に従って、わたしの助けを求める人々と協力し、かれらを援助します。さらに、ヨーロッパの文化的、霊的、宗教的現実と直面し、交流し、対話する道を探りたいと思っています。
 その現実は複雑で、矛盾に満ちています。そこには強く自明な統一力がある一方で、その多様性は危険な豊かさでもあるのです。ヨーロッパにおける仏教はヨーロッパという腐植土の中に植えられた、東を向いた「盆栽」であることはできません。また、オリエント的仏教(われわれの場合では日本的仏教)のヨーロッパ化であることもできません。ヨーロッパの仏教の歴史は人間の一生に比べるならば長いように思えるかもしれませんが、実は非常に短いのであって、仏教全体の観点から見るなら、実際は始まったばかりだと言っていいのです。それは、あせって結果を早急に望むのではなく、また(あたかもすべての人にとって正しい唯一の形態を見つけることができるかのように)そこに存在する相違を消し去って単一の鋳型に無理やり押し込もうとする魅惑的な誘惑に屈することなく(これはなんども繰り返して強調する価値があることです)、それ自身の形態を見出していかなければなりません。こうした態度は文化的文脈において有害ですし、宗教的な文脈においては不健全です。なぜならある種の原理主義(純粋で本来的な形態がすでにどこかにあって、選ばれた一群の監視人が、修行がそれから逸脱しないようにし、そしてたとえほんの少しでも逸脱した場合にはその形態にもどすことによって、それが変わらないように気をつけていなければならないという確信)を醸成しがちだからです。
 今日の世界においては、多くの人々が安全な壁の内側に自分を引きこもらせ、多様性の海の中で自らを失うかもしれないという恐怖を追い払おうとしていることは明らかです。いつもそうなのですが、中道によって敷かれた道を歩くためには、二つの極端を避けなければなりません。いかなる形態も、終わりのない変化を遂げるさまざまな要素の一時的な姿であることを忘れて、ある特定の形態をもうすでに出来上がっていてそこにある、模倣すべき完全なモデルであるとすることもしてはいけないし、また正しい形態を際限なく探し求め実践することが救済という理想の唯一可能な実現のしかたであることを忘れて、すべての形態がみんな同じであるとすることもしてはいけないのです。
 わたしが望むことは、われわれすべてが、ヨーロッパにおける曹洞禅が生き生きとした活力をもち、人を解放するものとして存在するという深い感覚を証明することに専心し続けていくということなのです。

慈相・フォルザーニ
曹洞宗ヨーロッパ総監

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